・混沌の首の申すところの「瞑想」
・すべては瞑想からはじまる/荒木重雄(「混沌の首通信1号」より)
・<混沌の首>に触れる/宮田徹也(「混沌の首通信2号」より)
混沌の首の申すところの〈瞑想〉
〈瞑想〉と申しますと座禅のように静かに座って行なうイメージをもつ方が多く、私共のような歩き回り時に激しく動き声を出す瞑想法には
あまり馴染みが無いかもしれません。しかし実はインドを始めとし古来より、瞑想には座して行なう方法と動きながら行なう方法がございました。
日本には歌舞伎を始めとする芸能や盆踊りの元となったとされる、鐘を打ち鳴らしながら飛び跳ね「南無阿弥陀仏」を唱える「踊り念仏」があり、イスラム教に
も音楽に合わせてぐるぐる回転する瞑想を実践するスーフィーがあります。
また、キリスト教では深い祈りの際に発せられる判読不明の言葉を「異言(いげん)」と呼び神聖視もされております。動き声を出す瞑想は、普遍的な瞑想法の一つと言えます。
内的な面においては、瞑想には「心の作用を滅するやり方(いわゆる無念無想の瞑想法)」と「心の作用を強く鋭くするやり方」があり、私共は後者を主としております。「心の作用を強く鋭くするやり方」は、言語による精神活動を受け流しつつ集中力を対象へ向かわせる手法です。
積極的に理性を捨て表層の自我の呪縛を解き、イメージを乗り物として無意識へ潜り、更には〈根源〉に至り霊的体験を得るといった道筋です。〈根源〉の解釈は、真なるもの、高次の存在、神仏、宇宙、霊(タマ)等、それぞれで結構です。 霊的体験とは日常生活においては閉ざされている「集合無意識」との回路を開く事により起こる精神作用の事とも言えましょう。
そして重要なのは、〈根源〉に至る体験は単に繰り返されるものでは無い、と言うことです。
一度深い瞑想により霊的エクスタシーを体験して通じた〈根源〉とのルートは回を重ねる毎によりいっそう深く強くなり、非日常であった霊的体験が日常に溶け込んでゆきます。
最終的に、自己を本来在るべき姿に変革する為のリアルな行為こそが〈瞑想〉なのです。
すべては瞑想からはじまる/荒木重雄
6年に及ぶ苦行でも納得の得られなかった釈尊は、菩提樹の下で禅定(坐
禅・瞑想)に入り、
7日目の払暁、突如として<なにか>を悟って仏陀(覚者)になった。
ここに仏教は始まるが、この坐禅・瞑想はなにも釈尊を創始者とするものではなく、釈尊より2000年も前のインダス文明にすでに見られた宗教行為である。
この修法は現在のヨーガに伝わる。中国で発展した禅宗の参禅もその一形態である。
しかし、瞑想は坐しての沈思黙考とはかぎらない。たとえば中世インドでは、
寺々を巡る吟遊詩人たちがヴィシュヌ神の神像の瞳を見詰めつつ讃歌を歌って神に抱かれる至福の神秘体験を得、
またその一派は、街頭に出てクリシュナ神とその愛人ラーダーの名を唱えつつ歌い躍り、熱狂と恍惚のはてについには集団失神に至ったという。
瞑想とは、なんらかの環境設定と行為によって日常に制約された自己を離れ、
より広くより深い世界の実相と出会おうとする試み、大宇宙や自己の内なる宇宙と邂逅してそこから世界を再解釈しようとする営みである。
とするならば、これらも確かな瞑想である。
キリストの受難の追体験に自分の身体を傷つけ倒れるフィリピンの聖金曜日の行進、
あるいは魔女ランダと聖獣バロンの闘いに自己投入し自らの胸に刃を突き立てるインドネシア・バリの男たち、こうしたアジアに多いトランスのさまざまも、
上のように解せば瞑想である。
瞑想の効果を上げるしかけは芸術である。インドの祠や聖者廟の前で歌われ奏でられるバジャンやカッワーリーなど神を称える音楽、
イスラム神秘主義者スーフィーたちが神との一体化を求めて踊る旋舞などの舞踊、フィリピンやバリの先の例のような演劇的空間、
タンカ(仏画)やタルチョ(経旗)、曼荼羅などの造形美術。かつてはドラッグやセックスも重要な<もうひとつの世界>へのてびきであった。
こうして見れば日本の仏教にもさまざまな瞑想のしかけがある。経や真言・陀羅尼の読誦、念仏三昧、護摩供養。
そしてなにより、「山川草木悉有仏性」、流れる雲・川のせせらぎ・鳥たちの囀り・花々の彩り香り、
すべては大日如来(毘廬遮那如来)の説法とする、自然・宇宙にひらかれた豊かで瑞々しい思想と感性がある。
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荒木重雄 高野山真言宗僧侶。元NHKチーフディレクター・桜美林大学教授。社会に開かれた仏教を主張。
<混沌の首>に触れる/宮田徹也
はじめに
《混沌の首》が放つ活動とライブを理解する為に、先ずweb
siteと「混沌の首通信」を引用してその主張の真意を探り、次にライブ活動を報告し、最後に前記二点から抽出した鍵となる言葉を解析する。当然、これに
より《混沌の首》を解体し再構築できる訳がない。私に今出来ることは、《混沌の首》に触れることのみである。
刊行物から読み取る主張
《混沌の首》の活動は「瞑想ライブ」、「奉納・瞑想ライブ」、「講義」、「静」「動」「音」「野外」による「瞑想会」と多岐に亘る。これは単なる集団の
「表現」に留まらずに、集団の主張を伝える活動=空間を生み出していると解釈することが出来る。
構成は真言、重金属系ノイズ・ユニット、ギター・三味線、和太鼓による音楽と、供養舞・動く瞑想である。声、音、身体による一体化を目指しているのだが、
ここで注目すべき事項は、和製と洋製という場所性、アコースティックとエレクトリックという時代性の融合であろう。
《混沌の首》は「「混沌の首」は、本来の芸術表現の意義する「根源への回帰」を目指し、高野山真言宗僧侶・羅入の呼びかけで2008年に発足されたアート
グループ」である。密教の僧侶が主宰するアートグループの目的は「根源」である。「「根源」は、優れた芸術等を生み出す啓示的・神示的インスピレーション
の源でもあります。芸術を生むインスピレーションの回路と「瞑想」によって開かれる「根源」への回路は同一であり、両者を融合・展開する事で相乗効果が得
られると考えます」。つまり《混沌の首》における瞑想は、神に捧げる宗教活動が主なのではなく、本来の芸術=根源のために行われていることになる。
Diamond Realm Live Vol.11(2010年2月10日/シルバーエレファント)ライブ報告
香が焚かれ、左右に巨大な蜀台が置かれ梵字が書かれた垂幕が下がる。ループした鈴の音が止むと、闇の中で植田昌吾による和太鼓の強烈な一撃が鳴り響く。沈
黙を挟み四度打ち鳴らされると、羅入が真言を詠み始める。神林和雄が激しく動いては止まり、蝋燭に火を点け、そこに手を翳す。コタ魔魔子が三味線を奏で、
Erehwonの石川雷太と昼間光城が緩やかに鉄板を擦る。
素早い動きの神林は残像を作り出すのではなく、陰そのものだ。真言と三味線が速度を上げ、和太鼓はテンポを揺るがさない。真言は持続から連続に変化し、和
太鼓がリズムを形成すると、コタ魔はエフェクトが利いたギターに持ち替える。紅葉、山本紗由、神沢敦子が赤いライトの中、恍惚の表情を浮かべ踊りだす。音
が止み、痙攣していた羅入が首を擡げる。打撃音のループから、音の量と質が上がる。暗転し、左右の蜀台に火が灯る。「動く瞑想」達は震え続ける。爆音が響
き渡り、ハウリングに変化して止み、真言のみになると55分のライブは終了する。
《混沌の首》自らが「原始宗教やシャーマニズムに近い」と記しているように、正に儀礼と言っても過言ではない。見えているのに見えないもの、聴こえている
のに聴こえないものが現前する。それは、五感の超越であるとも言える。
鍵となる言葉
「混沌」と「首」:《混沌の首》は以下のように説明する。「「混沌」とは、全てを包する根源の意味です。「首」とは最も重要な部分を示し、合わせて表すは
根源の核です」。「混沌」とは近代的価値観の土台である「秩序」と対峙するだろう。Georges
Bataille(1897〜1962)が組織した「Acephale」(1937〜39)は「無頭」を意味する。ヨーロッパで「頭」とは、神を指す。日
本では「晒し頭」とは言わない。古沢宅は「首くくり栲象」に改名した。つまり極めて現代的日本的な呼称なのだ。
「密教」「空間」:例えば745年に行基菩薩によって開かれ丸山応挙(1733〜95)らよる障壁画で実現された香住大乗寺の立体曼荼羅、835年に空海
により着工し完成した東寺講堂の立体曼荼羅は瞑想を深く駆り立てる密教の空間を実現したと言われている。当然、中世の婆娑羅やの踊念仏を想起することも可
能ではあるが、《混沌の首》の空間の特徴は、自ら生み出しながらも布教性がない点に終始する。それは芸術の在り方と等価なのだ。
「場所性」「時代性」:古今東西を横断する姿は太古に対する回帰を目指すのではなく、過去と未来を取り込んだ現代的な発想を持つということができる。《混
沌の首》は、近代的秩序を前時代的発想で超克しようとしない。仮想空間が横行しても、失われた肉体を取り戻そうともしない。それを現代的日本的というより
も、現在的存在的であると言い換えた方がいいのかも知れない。芸術は如何なる苦境に立ってもそれを凌駕する力を持つのだ。
「宗教」「神」「アート」「根源」「瞑想」:Ferdinand
Tonnies(1855〜1936)の『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(1887)によれば、「宗教」はゲマインシャフト(自然発生的に形成され
た集団)とゲゼルシャフト(人為的につくられた集団)の丁度間で僅かに人間的精神的ゲマインシャフト寄りに位置する。そこは芸術が支配する領域である。
《混沌の首》は、この定義に上手く当て嵌まる。神と芸術は同意義だ。そこに至る手段は瞑想であり、解脱を目標とする。
「陰」「五感の超越」:《混沌の首》に視覚的要素はない。羅入による版画も、動態としての存在感が色濃く残っている。視覚の欠落だけではなく、爆音による
聴覚的要素の麻痺、それによる触覚、味覚、嗅覚の停止が、忘我状態を引き起こす。しかし《混沌の首》は自我を喪失したとしても確固たる意識をそこに萌芽さ
せる。それこそが舞踏者の飯田晃一と同様に、「蝋燭の炎を吹き消す」(Hermann Beckh
(1875〜1937):Buddhismus(1928))解脱の光景を思い起こさせるのだ。
「持続」「連続」:この点にこそ《混沌の首》の最も重要な秘密が隠されている。仏教における連続は通常、縁起及び因果論で説明されるが、持続について主な
記述はない。「混沌の首通信」で石川雷太が言う「ミニマリズム」とは、「連続」についての考察である。持続とは、現在に存在する意義の一環なのかも知れな
い。この点を明らかにすることこそ、これからの《混沌の首》に対する考察を深める機運になると私は確信している。
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宮田徹也/日本近代美術思想史研究。1970年横浜生まれ。
高校留年中退。横浜国立大学大学院で岡倉覚三と日本美術史形成について研究、明治美術学会で発表(於東京藝術大学、『近代画説』14/2006年に要旨あ
り)。
修了後は現代美術、ダンス、音楽と範囲を拡張し、研究書や雑誌、web等で評論を発表している。
主な論文に「山口長男《軌》のマチエールについて」(「横浜美術館研究紀要」第9号/2008年4月)。
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